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第2回研究会準備メモ

 

 こんにち(2016年9月)、メディアをめぐる問いは、かなり深いところでの再定式化が要請されているところがあります。それは、「ポストメディア」や「ポストミディウム」という語があちこちで呟かれていること一点を見やるだけもみてとれるものでしょう。かたや、20世紀を代表した新聞やテレビ、映画といったマスメディアが、21世紀を迎え様々に変容しつつある光景があります。かたや、同じく造形芸術をめぐる思考の中心に置かれていたミディウムをめぐる問いがこれまた前世紀末あたりから根底から見直されつつある光景があります。もとは複数形であったメディアも、単数形のミディウムも、いまやその語の意味合いは様変わりしつつある、そういわざるをえないのが現状です。

 こうした危機(クリティカルな状態)にある、メディアをめぐる問いに対しては、さまざまな応答が実証的にも理論的にもすでに試みられていることもまた多くの人々が知るとおりです。とはいえ、新しい事態に真に新しく対処するためには、そうであるからこその、一層強く歴史的な視野が要請されるように思えます。ましてや、こんにち盛んに論じられるような複製技術が関わるメディアをめぐる現象や事象は、ずいぶんと前から――出版メディアあるいはそれ以前のテクノロジーを思い返すだけでも十分です――考察の対象として取り組まれてきたものであることは忘れてはならないところでしょう。下手をすると、喧しく議論される争点は実際にはとうの昔に応接がなされており、もしかすると一定程度の乗り越えもなされたものであるかもしれません。やはり、理論的な分析はつねに歴史的な深度がともなわれなければなりません。

 今回の研究会では、ロシア文学から番場俊氏、美術館研究から村田麻里子氏をお迎えし話題提供をおこなっていただきますが、その企みには、上のような狙いがありました。まったく異なる領域で仕事をしていらっしゃるお二人の名が並ぶのは突拍子のないものに映るかもしれません。ですが、じつは、お二人はそれぞれの仕事においてメディアないしミディウムといった語を高い頻度で書きつけられている、ばかりか、そこに関わる理論的諸問題にもたびたび言及なさっています。モデレーターとしては、狭い意味でのメディア研究の枠の外側であるいは境界で取り組まれているメディアないしミディウムに関するアプローチから何かを学びとりたい、危機にあるメディアをめぐる考察について刺激を受けたいと、そう考え、第二回は催されることになったとあらかじめ述べておきたいと思います。

 

 この準備メモは、前説にほかなりませんが、研究会のひとつの下敷きとして、お二人の近年のお仕事、村田氏の『思想としてのミュージアム』と番場氏の『ドストエフスキーと小説の問い』を、メディア論的な観点から整理するとどのように映るかという試みとして示しておきたいと思います。そうすることで、また、当日のお二人のお話のバックボーンを拙いながらでも提供し、両氏の仕事に触れる時間的余裕のなかった来場者の方々の議論のひとつのプラットフォームとなればとも思います。ではあるものの、お二人の発表にせよ、そのあとのディスカッションにせよ、このメモに拘束される必要はまったくありません。当日のディスカッションは自由に広がることこそが期待されているので、その点は了解しておいていただけると幸いです。

 その上で、お二人の著作は、では、それぞれにどのようにメディア論的に整理することができるでしょうか。


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「モデレーターからの準備メモ」は以下のリンクからダウンロードできます。


 

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