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第5回動態論的メディア研究会

「プラクティカブル・アート―メディウムからインストルメントへ―」

日時:3月18日(土)15:00-19:00
場所:MEDIA SHOP

登壇者:

藤幡正樹

Samuel Bianchini

(École Nationale Supérieure des Arts Décoratifs)

Dominique Cunin

(EnsadLab)

Elie During

(Université Paris X - Nanterre)
モデレーター:北野圭介(立命館大学)
司会:北村順生(立命館大学)

出席者:21名(登壇者含む)

動態論的メディア研究会第五回は、2017年3月18日、京都三条のMEDIASHOPで開催された。"Practicable Art: from Medium to Instrument"というタイトルのもと、前回から引き続きモデレーターの北野圭介氏とメディアアーティストの藤幡正樹氏が登壇し、両者がフランスを中心に活躍するメディアアーティストのサミュエル・ビアンキーニ氏とドミニク・キュナン氏、そして哲学者のエリー・デューリング氏を迎え入れることになった。

 

四時間近くに及んだ全体の流れを先に紹介しておけば、今回は休憩を挟んだ二部構成をとり、英語による実に濃密な報告と議論が交わされた。まずはビアンキーニ氏が、昨年MITから出版された編著Practicable: from Participation to Interaction in Contemporary Arthttps://mitpress.mit.edu/books/practicable)を紹介していく。この著作は、おもに1960年代以降のアートシーンにかかわる作家や理論家の論考を集め、とりわけ「インタラクティヴィティ」や「サイバネティクス」といった観点からそれらの再編を試みた大著である。その概要にとどまらず、自身の制作にとっての理論的背景を紹介したビアンキーニ氏の報告を受けて、藤幡氏がそれと共通するみずからの問題意識を紹介すると、続いてキュナン氏が、ビアンキーニ氏やウサマ・ムバラク氏との共同作品を可能にした技術的な仕様を解説していく。それぞれの合間には、北野氏による論点の整理と前回の研究会の議論との接続が図られ、さらにはデューリング氏がそれぞれの登壇者へと鋭い質問を突きつける。そのまま会場へと流れ込むようにして広がった質疑は、登壇者の作品や著述、さらには各自の関心についての活発な発言を交えて、予定時間をオーバーするまで続いた。

 

全体の議論を乱暴にまとめるなら、ちょうど"Practicable"というタームをめぐって理論・実践・技術的な側面が重なり合いつつ、最前線にあるメディアアートの活動とその問題意識をあぶり出すように展開していたように思われる。そのすべてを紹介することは到底不可能であるため、以下ではビアンキーニ氏による報告を中心として、それに対する各登壇者の応答を部分的に記録しておきたい。

 

氏が最初に示したのは、「触ってはいけない」との旨を記した、美術館でおなじみの看板である。こうした警告文が、インタラクティヴィティを特徴とするメディアアートにとって時宜に合わなくなっていること、そればかりか身体を動員することが当然となったゲームや携帯電話など、日常的なデジタル機器と対照をなすものでさえあることは、先の編著の冒頭でも指摘される。そうした現状を踏まえて、"Practicable"というタームに含意されているのは、現在までのメディアアート作品を前にした観客の「観想」と「使用」という両極的な態度を交差させつつ、その歴史的な蓄積を捉え直そうとする企図である。具体的には、はやくからサイバネティクスと同調する、または批判的な態度をとる実践として、ロバート・ラウシェンバーグやヨーゼフ・ボイス、フルクサスやギィ・ドゥボールが紹介されると、ナム・ジュン・パイクや山口勝弘、ジャック・バーナムなど、先駆的なアーティストたちの活動がそれに続く。さらに狭義のアートに収まることなく、コンピュータやインターネットの黎明期からアクティヴィズムを展開してきたヘアート・ロフィンク、クリティカル・アート・アンサンブル、カオス・コンピュータ・クラブらの実践とも交差しつつ、さらに最近であれば、デイビッド・ロークビー、オルラン、ペーター・バイベル、藤幡正樹、三上晴子、クシシュトフ・ヴォディチコ、フィリップ・パレーノら、現在形のメディアアートの実践へと接続されるのである。

 

ビアンキーニ氏の報告は続いて、自身の制作活動を支える理論的な背景へと展開する。これも誤解を恐れずにまとめると、伝統的な芸術作品のように、特定の完成品という単一の目的を目指すのではなく、それとは代わって「手段」「実験」「目的」の三項がダイナミックなフィードバックループを構成するような環境を実現すること、それによって私たちの感性的な経験を引き起こす条件を再編成することが、"Practicable"の目指すところである。そのための方法論として、ビアンキーニ氏らの制作活動は、J・ギブソンのアフォーダンス理論とあわせて、M・フーコーやG・ドゥルーズによる「装置」理論に着想を得たものであるという。さらに、その「装置」をめぐって参照項となるのがG・シモンドンとB・スティグレールによる技術論であり、後者においては、装置を取り巻くかたちで「社会」「美学」「技術」の三項を配置する理論的図式——"Organogenesis"——が形成される。このことを具体化したのが、現在のメディア環境と、それを操作する私たちの関係に批判的な態度を迫ろうとする、新たな作品のあり方にほかならない。

 

この理論的な側面を具体化するのが、続く藤幡氏による制作実践の紹介とキュナン氏による技術的仕様の解説である。藤幡氏は2013年の自身の作品《Voices of Aliveness》や、これまでの作品をインタラクティヴな形式でまとめた《Anarchive》(http://www.fujihata.jp/)を紹介し、そこでは単に作品の内容ではなく、それを提示する「手段」であるインターフェイスの操作性など、その細部に独自のこだわりがあったことを強調する。前回の報告(http://mediadynamics.wixsite.com/mdri/arc4thconference)から一節を借りれば、このことは「データがまずあり、メディアは何でもよくインターフェイスは時代によっていくらでも変えてよい」といった、現在のメディア環境についての指摘とも共鳴している。

 

続いてドミニク・キュナン氏は、共同制作による2014年の作品《Surexposition/Overexposition》(http://dispotheque.org/en/overexposure)や、自身が手がけたjavascript言語の"Mobilizing"など、メディアアートを支える技術的側面を明らかにしていく。たとえば、前者の作品では、所定の会場に集まった観衆が送信したSMSがモールス信号へと変換され、それが手元にあるスマートフォンの画面と会場に設置された黒い直方体「モノリス」とのあいだで明滅する点と線として表示され、同期するようになる。さらには、それが建物から夜空に向かって断続的に伸びるスポットライトとして、都市を舞台に物質化されるようにもなる。こうして手元にある個々のメディウムから、人々の身体を覆い尽くす都市環境とのあいだで、文字どおりにインタラクティヴな次元が拡張されていくのである。

 

この実験的な試みを可能にした"Mobilizing"は、たとえば、観客のスマートフォンとGPS機能をもちいて、それが建物や部屋に投影された映像と連動することを可能にするJavascript言語である。氏はそれらのプログラミングを一般のインターフェイスへと拡張するため、無償でアクセス可能なオープンソースの"mobilizing-js"(http://www.mobilizing-js.net/en)として公開している。今回の研究会では、プログラミング言語の詳細とそこに生じたエラーが詳らかにされたが、このことは今後もメディアアート作品を検討するにあたって必然かつ特筆すべき点であり、と同時に、まさしく手段と実験と目的のループを目の当たりにさせるものであったと言える。

 

北野氏はいわゆる「技術決定論」への警戒心を喚起しつつも、ここまでの議論をPlatform-Form-Contentの三項がレイヤー化したような関係として整理することになる。デューリング氏が最後に提示した問いのひとつは、まさしくその中間に位置する"Form"をめぐる問いであったからだ。"Form"という概念が時間と空間の枠組みを設定する概念として機能するのであれば、メディウムが環境へと拡張し、そこで作者や技術者やユーザーが共存可能となるメディアアートの実践のうちに、この伝統的な概念をいかにして位置付けることができるのだろうか。より具体的に言えば、これらの作品が置かれる場は、もはや従来の美術館や展覧会よりも、ディスプレイやデモ(ンストレーション)、さらにはプラットフォームといった方がふさわしい。物語世界を覗き込むための「透明な窓」でもなく、特異な状況へと完全に包み込まれる「没入」とも異なり、藤幡氏の作品がiPadなどの情報端末をもちいてヴァーチャルな共同体や作品アーカイヴを拡張現実として可視化するとき、またはビアンキーニ氏とキュナン氏が既存の環境とモバイルスクリーンとが同期するような経験を提示するとき、そこにはいかなるFormが形成されているのであろうか。

 

より端的に言えば、多くの場合にデジタル技術が可能にしたPracticableやInteractiveな状況にとって、"Form"とはいったい何を意味するのか——率直に言えば、この周到な問いに対して当日のうちに明解な回答が提出されたとは思えず、それを望むことさえ無謀な難問であったのかもしれない。だが、それは誤解のないようにくりかえせば、この問いが呼び水となって、徐々に客席とのあいだで交互に発言が飛び交うようになったからでもある。そのやりとりでも指摘されたように、先にあげた環境へと拡張するメディウムと関連して提出された「プラットフォームplatform」や、これも先に触れたシモンドンの議論になぞらえれば「情報information」といった用語のうちに、それぞれ"Form"という語が組み込まれていることは単なる偶然ではありえない。そしてなにより、こうして当日に交わされた議論が、私たち自身の今後のメディア(アート)をめぐる研究や経験へと、ダイナミックなフィードバックを起こすことは間違いないように思われる。​(文責:増田展大)

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