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第4回動態論的メディア研究会

「藤幡正樹とともに考える~メディア、技術、アート​」

日時:1月7日(土)17:00-20:00
場所:京都国立近代美術館1階ロビー(ホワイエ)

スピーカー:藤幡正樹
ディスカッサント:北野圭介(立命館大学)
司会:北村順生(立命館大学)

出席者:33名(登壇者含む)

2017年1月7日に京都国立近代美術館にて開催された第4回動態論的メディア研究会は、メディアアーティストの藤幡正樹氏をお迎えしてお話をうかがった。

 

冒頭、ディスカッサントの北野圭介氏は、藤幡氏がかつて1999年の著書『アートとコンピュータ』の序文に綴った予見的なくだりを参照しながら、新しいモノやリアリティの概念の登場に早くから着目しつつ長い活動を通じてメディアや技術やアートを見てきた藤幡氏が、昨今世界的に論じられている新しい唯物論や思弁的実在論やメディア生態学などにおける論点を先触れしていることに注目しつつ、藤幡氏のこれまでの仕事を紹介した。

 藤幡氏は、まず、メルセデス・ベンツとNVIDIAが人工知能を搭載した自動車を共同開発するというニュースにふれつつ、これからの機械と人間に決定的に重要な問題として、未来予測と事故の問いを提起した。すなわち、現代の人工知能が未来予測のために計算機を利用し、人間が経験と脳で決断するよりも速く最善の可能性を選択しはじめているなか、人間に残されたのはヒューマンエラーという事故しかないのではないかという問題提起である。未来予測の連続(ツルツルな世界)にいかに不連続が差し挟めるかという問題はまた、意味解釈の分岐の選択に不連続を入れることとしての詩の問題ともいえる。機械が人間の環境をますます全面的に包囲するなかで人間はどこに残されるのかという問いが立てられた。

 続けて藤幡氏は、機械と人間のインターフェイスの問題にアプローチする観点としての「モダリティー」という考え方を提案した。コンピューター以前のインターフェイスは見ればどう使うかがわかった(アフォーダンスがあった)が、コンピューター以後はインターフェイスがわるいと使い方がわからないという問題を、インターフェイスのデザインの問題としてではなく、人間の視点からみたときのモダリティーの問題として考えてみようという提案である。モダリティーは、インタラクティヴな関係が結ばれる仕方によって決定される。たとえば、同じWIMP(ウィンドウ、アイコン、メニュー、ポインティング)というインターフェイスでも、内容とインターフェイスの構造との微妙な関係によって異なるモダリティーが生まれる。この仮説が、ワークショップの成果作品をはじめとするいくつかの例とともに、提示された。

 これに関連して北野氏は、モダリティーという語の多義的な文脈に着目することで、これまでインターフェイスやインタラクションとして大雑把に語られてきたことを、より精妙に議論しうるポテンシャルを示唆した。すなわち、モダリティーには、たとえば、認知やロボティクスにおける知覚やセンサー、世界に対してどういうポジションで語るのかという言語における法、必然性や可能性といった記号論理学における様相などの意味があり、デジタル化した生活環境から作品概念や人間の定義にいたるまで、モダリティーでアプローチできるかもしれない。

 また、藤幡氏は、先頃刊行された『Anarchive 6 Masaki Fujihata』に関連していくつかの論点もあげた。Anarchiveシリーズは、アンヌ−マリー・デュゲ氏が編集するアーカイヴのシリーズであり、そこでは、メディアアート史の教育現場で資料が不足していたり、OSやシステムの世代交代につれて過去の作品が動かなくなっていたりする状況のなかで、作家はどうするのか、が問われている。藤幡氏以前のシリーズではCD-ROMを利用したインタラクティヴなマルチメディア出版が基本だったが、藤幡氏は、もはやCD-ROMもDVDもレガシー化しており、また、アーカイヴであればウェブサイトを充実させれば十分であると考え、むしろ本と情報を結合させるという動機から、ARとして取り組むことになったという。また、制作の過程で、作品の定義も再考したという。家電製品と文庫本を例にあげて、藤幡氏は、購入してはじめて理解できる意味を消費したいという欲望を指摘し、美しさというよりは、納得をともなう「わかった」の面白さに創作の動機を見出す。

 さらに藤幡氏は、夢と事故を比較しつつ、現実を感じる機会としての事故を安全にシミュレーションすることとしての作品という命題を提示した。夢は、現実化したら夢ではなくなるという意味で、現実化を拒まれている。事故もまた、起こってほしくない出来事という意味で、現実化を拒まれている。この点で、夢と事故は一緒である。ところで、事故は、この世界がツルツル(完璧)ではないことを証明し、現実を見るために必要な距離としてのギャップに気づかせてくれる。メディアは、まさにそのようなギャップの凸凹であると同時に、そのギャップを埋め戻して何もなかったことにしてしまうパテでもある。だから、どのように事故から回復するかのプロセスが問題となる。藤幡氏は、補助線として、大澤真幸氏の「夢よりも深い覚醒」という考え方を参照する[大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ:3・11後の哲学』]。夢とは睡眠をほんの少しだけ延長させるものにすぎないという夢の解釈は、夢の内容に示唆されていた詩的真実と対峙することからの逃避を正当化させ、真実を覆い隠してしまう。夢よりも深い覚醒とは、そのように睡眠から目を覚ましてツルツルの世界に退避することとしての覚醒ではなく、夢そのものに内在する暗示から潜在的な詩的真実を覚知することとしての覚醒である。世界のツルツル化が進行するなかで、そのような現実を感じるチャンスとしての夢=事故のシミュレーションこそが作品なのではないか、と藤幡氏は問いかける。

 このように事故を仕込むことは、モダリティー、あるいはいわば原稿用紙をつくると同時に中身を埋めることとしてのメディアアートの問題であるということを、藤幡氏は、マラルメやフェルメールについてのユニークな分析や、また自身の《Beyond Pages》についての石田英敬氏による批評も引用しつつ[石田英敬「これは本ではない」『Anarchive』]、より詳細に議論してゆく。インタラクションとは、書く自分と書かれたものを見る自分との相互作用であり、その間にはいつも先立ってメディアが介在する以上、書かれたものはつねに自分ではない他者が書いたものである。そのようなインタラクションのメディアがコンピューターであるとき、どのような自己崩壊が起こり、それをどのように制御すればそのインタラクティヴ作品を体験している者にとって事故になるかが、メディアアートの問題となる。北野氏の言葉で換言すれば、これはすなわち、安定したメディウムの安定性そのものを問いただし、と同時に、そこに自分の作品を載せることである。

 最後に、ポスト言語的なツルツル化のメディア状況においてそのような事故とは何かという、冒頭に提起された問題が改めて問われた。北野氏は、現在のデジタル・メディアは、言語のみならず言語を超えた感覚器官が接しているモダリティーのレベルを、数学的にプログラミングしてツルツルにし、未来予測の名のもとで誘導していると指摘する。そのようなメディアは確率的に生じる事故には対応でき、そしてそれですべてだと開き直る立場もあるなかで(このようにすべてを計算に還元する立場の例として、北野氏は、世界のGoogle化としての思弁的実在論や、浅田彰氏による整理を参考にしつつ「数学的形而上学」をあげる[浅田彰(聞き手・東浩紀)「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ」『ゲンロン 4』])、このようなときに事故とは何か、が問われねばならない。

 藤幡氏は、コンピューターに取り込み終わっているものについてはそれで済むが、事故はインターフェイスにかかわるものであるから、誤読するのはコンピューターの外側にいる人間だけであり、そしてインターフェイス次第で無限にエラーは起こりうる、と主張する。例として藤幡氏は『Anarchive』に収録されたAR版の《Beyond Pages》をあげる。これを実際に体験するには、タブレットのカメラでうまくターゲットマーカーを捉えて、ARを出現させないといけない。マーカーがうまく認識できないと、ARが突然出てきたり突然消えたりする。工学的にはできるだけそうならないようツルツルにしようとするが、結局のところはユーザーが練習しなくてはいけない。つまり事故は避けがたい。コンピューターの内と外の接点には面白い事故のケースがたくさんあり、やはりいかにして事故に向かってナヴィゲーションするかが作品になると藤幡氏は主張した。

 

議論をフロアに開いてからの討議もおおいに盛り上がった。まず、ツルツル化をタブレット的比喩としてとらえる観点から、いくつかの論点があがった。すなわち、キーボードからタブレットへの変化や、シングルレイヤー化、またディスプレイ画面に触れている子供たちにとってのメディアの直接性/非直接性の変化である。ただし、藤幡氏は、ツルツル化はタブレット的な見た目のツルツルさとは必ずしも関係なく、むしろメディアが間に挟まってきて解釈してくれる感じのことであると考えており、一例として路面状況がハンドルに返ってこないような自動車の運転感覚をあげた。画面に直接触れることについては、藤幡氏は、イメージのインタラクティヴな制御が進行することで主観的にはイメージがオブジェクトになるという洞察から、画面に直接触る子供はそれをディスプレイ(イメージの表示装置)ではなくオブジェクトと見ていると指摘した。また、インタラクション設計のシングルレイヤー化について、北野氏は、行動予測における統計処理にともなうある種の平均化のために、かえって個々人の身体性やモダリティーの差異が改めて問われてゆくことを指摘した。

 また、事故と夢についても意見があがり、事故と夢の共通性に留意しつつも、実現を拒まれる事故と実現を拒む夢という両者の差異に着目することで、事故とシミュレートされた事故とを本質的に異なる2種類に分類するということが提案された。すなわち、夢から覚めると事故が事故になるのであり、夢よりも深く覚醒するということは事故なしで潜在的な現実をとらえることであって、それは事故のシミュレーションや制御された事故というよりも、むしろ2種類目の事故ないし端的に夢として、事故とは区別しておくのがよいのではないかという考え方である。さらに関連して、現代のメディア状況を考えるにあたって、予測=サイエンスと制御=エンジニアリングの違いに着目するという視点も提案された。予測こそが事故を生んでいるのであり、また、予測行為と現実とが相関しているサイエンスのパラダイムでは予測が決定的に不可能であるなら、原理の探究にもとづく予測など放棄して、現実を先制的に制御してしまおうというエンジニアリング的な考え方が、現代のメディア状況を貫いているのではないかという指摘である。北野氏は、そのようなエンジニアリング志向の制御に関連して先述の浅田氏のインタビューを再び参照しつつ「プログラミング的プラグマティズム」という考え方を紹介しながら、数学的形而上学でもプログラミング的プラグマティズムでもない方向として藤幡氏の考えを理解する可能性を示唆した。また、藤幡氏は、小説家はいったい読者に対して何をしているのかという問いを例にあげ、予測と制御の議論が、これまでメディアやコンテンツやインターフェイスやコンテキストによって語られてきた文脈についての議論を読み替えるための鍵になりうる可能性を示唆した。

 また、インターネット以降のアート作品の価値についても質問があがった。すなわち、かつてベンヤミンはアート作品の価値が礼拝的価値から展示的価値へ変化したことを指摘したが、インターネット以降はさらに循環的価値・拡散的価値へと変化しており、そのようなサーキュレーション的状況のなかで価値が発生する機構が問われた。藤幡氏は、マーケット志向のコマーシャルなアートの流通によって20世紀的なアートのフォーマットが限界を迎えているなか、サーキュレーション的状況でアーティストがいかに食べていくかの問題さえ解決されれば、アートが大きく変わりうることを指摘した。藤幡氏自身は、コピーされることこそが重要であるという考えのもと、よりよいかたちでコピーされるための環境づくりを目指したプロジェクトを進行中であるという。

 現代のメディア状況のもとで人間概念をいかに捉え直すかについても議論された。技術的予測による事前の制御の全面化が現実味をおびはじめることで人間の概念そのものが変化してきている時代に、ヒューマンエラーに期待するのは人間主義的すぎるのではないかという指摘に対し、藤幡氏は、アートはやはりヒューマンなものであり、イレギュラーなものを認めてもらうという自由を担保する行為であって、人間なしのアートはありえないという立場を強調した。したがって、人工知能のアートについても、それは人間と関係がないのでありえないと藤幡氏は考える。ロボットについても、究極的には墓石のように、姿形とは無関係に文脈に依存して人物になれることが問題であり、人間の問題であると主張された。さらに、いかに機械学習によって人間の様式が模倣されようと、事故を起こせるのは人間だけであることが強調された。また、北野氏は、美学芸術学においてそもそも芸術家は人間的なものと非人間的なものの架け橋としてあったのだから、ヒューマンからポストヒューマンへという単線的移行はそもそも芸術活動によって疑われてきたのであって、むしろ、ポストヒューマン時代における人間的なものと非人間的なものとのカップリングの探究として問いを立てることが提案された。

 天変地異のアートがありうるかという質問には、藤幡氏は、アートのあり方が今後どうなるかという問いと関連づけて応答した。いまはミュージアムに展示・収蔵されることがアートを成立させているが、そうである限り、天変地異のような事故はシミュレーション(制御された予測可能な範疇で起こる事故)としてしかアートになりえない。それでも、鑑賞によって実際の事故への想起や準備をさせるものとしては成立しうるし、事故の記録すなわちモニュメントとして残ることもアートの重要な要素であると藤幡氏はいう。とはいえ、藤幡氏は、ミュージアムという制度についての文化的政治的に本質的な批判なしにはアートをやる意味がないだろうと問いかけた。

 関連して、最後に、作品を発表する場についての藤幡氏の考えをうかがう質問もあがった。藤幡氏は、《モレルのパノラマ》や《Beyond Pages》のときには美術館という場の内での批判的関心もあったが、近年ではむしろ美術館の外に興味があるといい、代表例として《Voices of Aliveness》があげられた。集合的記憶のメタ・モニュメントでもあるこの作品は、採集された同一のデジタルデータをもとにして、プロジェクションやウェブブラウザやARといった異なる可視化のフォーマットで複数のヴァージョンがつくられてきた。藤幡氏によれば、データがまずあり、メディアは何でもよくインターフェイスは時代によっていくらでも変えてよい、という考え方がそこにはある。

 

今回の研究会を振り返りつつ藤幡氏の『Anarchive』を眺めていると、モダリティーという藤幡氏の提案はやはり的確であると思う。それはさらに、夢よりも深い覚醒という大澤氏の考え方と、モダリティーの多義的な文脈という北野氏の補助線によって、よりいっそう的確なメディアアートのキーワードに思われてくる。夢よりも深い覚醒によって詩的真実を覚知するための媒介の鍵は、事後の視点を現在に導入する前未来の他者のモダリティーにあるからだ。現在に潜在する未来にアクセスするモダリティーのメディアアート。内在しながらにして詩的真実を知るチャンスをつかむモダリティーのメディアアート。あるいは事故なしに事故を経験して別の選択肢を実現するモダリティーのメディアアート。タブレット越しに『Anarchive』の動画を全画面表示することなく見ているとき、この世ならぬものがこともなげにそこにぽんといる感覚がある。それは藤幡氏のCG作品と論考(《Mandala 1983》と「コンピューターは重力と関係が無い」ことについての考察はとりわけツルツルで凸凹してみえる)から《Voices of Aliveness》のふるえるヴィデオプレーンにいたるまでを貫き、いま『Anarchive』のページとタブレットのあいだでときどきピクピクと落ち着きなく動いては明後日の方を向くARのオブジェクトとしてここにいる。もしかするとそれは、ARというよりも、VRというよりも、AVRと呼ぶことができるものなのかもしれない。増強された潜在的で現実的なものの感覚。​(文責:原島大輔)

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